こちらは兵庫県立洲本高校 公式 同窓会ホームページです。

同窓会設立

 同窓会設立については、詳しい資料がないため詳細は不明である。唯一の手がかりは、職員として勤務する傍ら、同窓会事務局長を13年間も務めた後、副会長としても本会を支えた、野上憲三郎氏(洲中27期)の手記である。以下は、昭和52年(1977)に発刊された『創立80周年記念誌』に、氏が寄せた「同窓会の歩み」の本文から、部分的修正を加え抜粋し、掲載している。
 洲本中学創設の時期は判明していない。担当職員の指示で適当な日時に集まり、雑談を交わす程度だったらしく、1977年当時に最古参だった金田良蔵氏(洲中7期)さえも記憶がないとのことである。野上氏は、一度だけその会合に出席したことがあり、そのときの様子をこう語っている。
 「集まる人も数人で、夏のことではあり、葡萄とラムネの馳走で、加集純三先生が接待されたが、校長などは勿論姿も見せなかったし、まあ、寂しいものだった。畠田昌福氏(洲中14期:後の愛媛県知事)が内務省の地方監察で帰省した際も、ささやかな会を催した程度だったらしい。当時、洲本在住の同窓といえば、藤岡陸軍中佐、上宮海軍少佐、島校医、白川久雄県議の諸氏が有名だった。」
 戦後、洲中同窓会が名実ともに確立されたのが創立50周年の直前、昭和22年(1947)の秋である。武田清一氏(洲中39期)の談によれば、各期の代表のような人々が会議室に集い、同窓会を新たに発足させようではないか、ということで上宮氏が事務局担当に白川氏を推薦したとのこと。10月に洲中創立50周年記念式典が挙行され、記念講演には大内兵衛氏(洲中5期:東大教授)を招いた。
 一方、淡路高等女学校は明治30年に開校の後、明治40年に第1回生34名が卒業し、その夏に講堂で第1回目の同窓会を開き、次のような同窓会歌を作っている。
 「曰く、立ち振る舞えば、三熊山風裳すそを払ひ、ふみ読めばちぬの浦波窓に音なふ。」
 淡交会創設当初の主役は、松久保ひろ氏、島本なみ氏(高女1期)、松谷たけの氏(高女2期:洲高卒業式に祝辞を欠かさなかった人)で、昭和52年には、昔日を懐かしむ意味から、田中さなゑ氏(高女20期:元洲本市議)を会長、黒田みつゑ氏(高女30期)を副会長として再結成されている。
 昭和23年(1948)4月、学制改革により洲本中学は48期生が最後の生徒となり、9月に「県立洲本高等学校」と校名が変更されるに伴って、同窓会も「洲本高校同窓会」と改称した。淡路高女は最後となる43期生まで、3879名の卒業生を輩出した。
 5月に米進駐軍の勧告で男女共学が打ち出されていたが、淡路高女側は統合に反対。洲中側は加集音市校長の命で、当時職員だった野上氏が文案作成、服部敬之氏(洲中36期:後の洲高校長)が校正を務め、一夜のうちに統合大賛成の声明文を刷り上げて市内に撒布した。淡路高女の職員、印部すえ氏(高女18期:後の県教育委員長)の多大な協力もあり、7月にはめでたく統合へと進んだ。同窓会も、洲中側と、松谷氏、田中氏、郡もとゑ氏(高女8期)ら高女側との協議により、昭和24年(1949)夏に両会が合流した。
 昭和35年、校舎改築に際し、同窓会の組織確立が迫られたため、6月に当時の白川久雄会長名で洲中、高女、洲高からそれぞれ各期1~2名の役員(後に評議員)を委嘱、会合を重ね、8月の総会で洲本高校同窓会の組織が確立し、校舎改築のための大募金運動が展開された。本会の組織体系は今も引き継がれている。